【「時運」ではない、「義命」である!】
玉音放送で知られる終戦の詔勅は、
その起草に書記官長の迫水久常をはじめ
数人が関わったとされます。
その起草に書記官長の迫水久常をはじめ
数人が関わったとされます。
御前会議で昭和天皇が仰せになったことをもとに文章を起こし、有識者の助言および添削を仰いだのです。
詔勅に深く関わった安岡正篤は、
天皇と日本国民が誇りを失わない内容とすること、
さらには日本が降伏するのは勝敗の問題ではなく
高い道徳的立場から行うということを明確にするという、
この二点を最大の課題としました。
天皇と日本国民が誇りを失わない内容とすること、
さらには日本が降伏するのは勝敗の問題ではなく
高い道徳的立場から行うということを明確にするという、
この二点を最大の課題としました。
その結果、
「義命の趨(おもむ)く所
堪え難きを堪え忍び難きを忍び
以て万世の為に太平を開かんと欲す」
堪え難きを堪え忍び難きを忍び
以て万世の為に太平を開かんと欲す」
という文章が盛り込まれたのです。
しかし、最終的には「義命」が「時運」に
差し替えられました。
差し替えられました。
安岡正篤は戦後いっさい詔勅について
口を閉ざしていましたが、
昭和三十七年一月、
ようやくその胸中をあきらかにしています。
口を閉ざしていましたが、
昭和三十七年一月、
ようやくその胸中をあきらかにしています。
「『時運の趨く所』というのは、
風の吹き回しということだ。
風の吹き回しで調子が悪くなたから
おじぎをするっていうことだ。
それなら、日本の天皇陛下、皇道哲学にはならん」
風の吹き回しということだ。
風の吹き回しで調子が悪くなたから
おじぎをするっていうことだ。
それなら、日本の天皇陛下、皇道哲学にはならん」
(『安岡正篤と終戦の詔勅』関西師友協会編 PHP研究所)
負けるのは戦に負けたから降参するのではない、
勝とうが負けようが、
いずれにしても信義に基づいてやめるのだ、
という意味が「義命」にはあったのです。
勝とうが負けようが、
いずれにしても信義に基づいてやめるのだ、
という意味が「義命」にはあったのです。
戦後十年の記念式典の際、
安岡正篤は迫水久常に対して
安岡正篤は迫水久常に対して
「日本の政治が行き当たりばったりになったのは、
義命を削除し時運の趨くところとしたあなたのせいだ。
あなたは時運派ではなく義命派の政治家になりなさい」
義命を削除し時運の趨くところとしたあなたのせいだ。
あなたは時運派ではなく義命派の政治家になりなさい」
と喝破しました。
詔勅が、正しく「義命の趨く所」とされていたら、
戦後の日本はどうなっていただろうかと
考えずにはいられません。
いまや日本人が大切にしてきた「義」は
残念ながら風前の灯となっているように思われます。
私心に起因する損得勘定ではなく、
無私に努めて公のために生きることが、
かつては人としての正しいあり方とされていたのです。
戦後の日本はどうなっていただろうかと
考えずにはいられません。
いまや日本人が大切にしてきた「義」は
残念ながら風前の灯となっているように思われます。
私心に起因する損得勘定ではなく、
無私に努めて公のために生きることが、
かつては人としての正しいあり方とされていたのです。
(※拙著『五月の蛍』より抜粋)