【武が本体である】
武というものを、暴力の行使であるという受け止め方が一般的です。
それに対して文は平和の象徴であるというイメージを多くの人が抱いています。
もしそうであるならば両者は相容れない。
ゆえに、「文に流れれば文弱になり、武に流れると暴力になる」という両方の弱点を補うために「文武両道」ということがいわれるようになった。
が、徳川時代の碩学・山梨稲川(やまなしとうせん)は、武とはそもそもそういうものではない、と断じた。
「我々人間社会の現実というのは、いろんな邪悪な力と戦わないとならない。それは避けられない現実の姿である。その邪悪の力と戦って、われわれの生活や理想を一歩一歩作り上げていく実践力、これが武である」
安岡正篤先生は、上記を受けて、こう述べられています。
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甘い感傷的な空虚な観念に逃げてしまわないで、
どんなにか骨が折れても何らごまかさず、
着々と現実を浄化してゆく。
雨雪風雷と戦って若木が伸び、花が咲き、
やがて実を成らせるように、
現実の中から文化の花を開いてゆく実践力、努力を
武というのである。
だから、武があって始めて文がある、武が本体である。
したがて本当に文化の花を咲かせるような武でなければ、
本当の武ではない、と非常に深く武を解釈している。
(『活学講座』より)
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こうしたことを学ぶと
あらためて日本における武士道というものの素晴らしさを思います。
まさしく文化の花を咲かせた。
日本においては、武が本体であったといっても過言ではないでしょう。
だからこそ始めて文が本物の文となり得た。
いやはや、学ぶほどに大海を知るものです。
いったい私は武士道を学びながら何を得たかと言えば
ますます武士道の理解体得にほど遠い自分を知るのです。