国破れて山河あり

【皇軍は停戦に関する命令以外は発令権を失った。
 これぞ天の命、神風であった。】

天皇陛下の詔勅こそが天命であり、神風である。
その時、いかに心が荒波立っていたかに気づいたのでした。
不思議な力が働いたかのように、
心がしんしんと静まりかえっていきます。

「わかりました。もとより我々は天皇の軍隊です。
 私の一命に代えても部隊を鎮めます」


司令部を出ると、すでに陽が傾き始めていました。
大分基地にもあちこちに荒々しい爆撃の跡が見えています。
西日を浴びて零戦が主を待っていました。

「もう、お前を戦場に駆ることはないんだ」

何気なく口にした言葉に、
ほかでもない美濃部少佐自身が驚き、一瞬、動作が奪われました。
「昨日とは一八〇度変わってしまった今日」がそこにありました。

これまで幾度となく大空を駆け巡ってきた。
零戦はいつもと変わらぬ姿でいる。
けれどその存在の意味は変わったのです。
のみならず、もはや失われようとしている…。

それは自らの存在価値、存在意義への問いかけでもありました。
これまでの自分と、これからの自分。
その間には、過酷な闘いと無念の敗戦とが横たわっていました。
それはほぼ断絶に近いような深い溝となって人生を二分しているかのようです。

手足が、まるで他人のもののようでした。
言うことを聴かせるように、ようやく動かしながら、零戦を発進する。

空が焼けはじめていました。
徐々に高度を上げていく。

眼下には深い緑に覆われた大地がありました。
あちらこちらに空爆の跡が見えています。
それでもなお山々は、侵しがたい威厳に満ちて、
威風堂々と君臨していました。
それは神々のおわす山、我が国の歴史を見つめ、支えてきた山です。


【大分から岩川基地への帰途、三千年の歴史を伝える霊峰、
 高千穂の峰が右手に見える。霧島山の噴煙は静かにたなびいている。
 「国破れて山河あり」……
 あの山、この川、昨日迄は敵味方激しい戦いの場も今は断雲のみ去来。
 共に死を覚悟して戦ってきた菊水作戦、先だった者と残れる者。
 彼のみ死に我のみ生き残る】


・・・・・・『五月の蛍』(内外出版社)P287~289より





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